2014年12月13日土曜日

【習作】夜の浦

【タイトル】夜の浦
【文字数】2881字

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希江がこの街からいなくなって、今年でちょうど15回めの冬だ。
僕は毎年帰省のたび立ち寄る浦の雪を、この土地にはそぐわないショートブーツで踏みしめる。マフラー越しに吐く息が目の前を曇らせる。
夜の浦のむこうを見つめる。


The land of ice

希江の父親が死んだ、という知らせがこの小さな港町を走ったのは、大人たちが「さあ鰊漁だ」と目を血走らせはじめたころ、そして僕たち受験生がもう志望校を変更できない、と覚悟を決めた11月も終わりの頃だった。
突然の仲間内の訃報に、町は水を打ったように静まりかえった。対照的に、火葬から葬儀までのいっさいがあわただしく通り過ぎた。今思えばそれは、埋まった何かを掘り返されないうちにブルドーザーで更地にしようとするような、彼の存在をはじめからなかったことにしたいかのような、そんな速さだった。

希江の家と僕の家とは小さな浦に面した同じ並びにあった。幼なじみで同級生だった。物心つく前からうんざりするほど希江の顔を見てきたつもりだった。だから火葬場で数日ぶりに彼女を見たとき、僕の心臓はえぐられるような、という形容の痛みを初めて覚えた。
小さな頃から勝ち気で生意気な、僕の知っている希江はもうそこにはいなかった。
いたのは、泣き続ける母親のとなりで、いっさいの他人を拒んでいた一人の少女だった。斜め下に伏せた彼女の瞳にはなにも映っていなかった。自分の父が燃える、ごうごうという音だけを背負って、ただ精一杯そこに立っていた。

おじさんの死がどうやら自死らしいこと、隣町の廃工場の空き倉庫で倒れていたのを近所の者が見つけたこと、傍らに農薬が転がっていたこと、そこにはおじさんともう一人、女の人が倒れていたらしいこと。それらが他人の声に乗って僕の耳に入ったのは、葬式が終わって2週間後のことだった。



「信吾くん、しばらく希江といっしょに学校にいってくれない。受験の前まででいいから」
希江の母と僕の両親からそう頼まれるまでもなく、葬式が終わってから僕と希江はどちらともなく登下校の時間を合わせるようになった。
あの日から希江はほとんど口をきかなくなった。それでも休まずに学校に足を運んだのは、きっと母親に心配をかけまいとしてだろう。頼みにきたおばさんも別人のようにやつれていた。すがるような目が痛ましかった。

僕たちは無言で浦沿いの細道を踏みしめた。浦の傍らには枯れすすきが揺れていた。霜でせり上がった土の上に白い雪がうっすらと降って、朝は歩くたびぱきぱきと真新しい音がブーツの下から体に響いた。授業と補習が終わって帰る頃には、それらが無残に鰊漁の軽トラで踏みにじられ、汚され、ぼこぼことした轍になって、街灯のない夜の道をいっそういらだたせた。もしかしたら希江とおばさんは、おじさんといっしょに死んでいたという女のことをずっと前から知っていたのかもしれない。希江にかけるべき言葉は授業でも模試でも習わなかった。


いつもの帰り道のことだった。
希江はふと歩みをとめて、枯れすすきの向こうの浦の海に顔を向けた。
そのまま希江は浦へとボアブーツを進めていった。かつては小さな手繰り船も出入りした浦だ、と僕は死んだじいちゃんから何度もきかされていた。でも砂が堆積した今では、この時期だけの鰊漁の船外機が出入りするのがやっとの小さな浦だ。
その日の海はめずらしく浜風がなかった。落ちてくる柔らかい綿雪が見えた。海は浜沿いの家の灯りにところどころ反射して、なめらかな水面を垣間見せていた。雪は音もなく海面にすいこまれて、溶けてを繰り返していた。暗闇の向こうには鰊漁の網を刺した位置を示す、か弱い目印灯の点滅だけがあった。希江はなにかにでも呼ばれているかのように、波際に向かってまっすぐさく、さくと音をたてながら歩いていった。僕は希江のあとについて雪を割って歩いた。
希江は波打ち際の手前の雪の小山で歩みを停めた。その下には1年間のあいだに流れ着いた流木や、大陸からのゴミが堆積していた。

僕は希江を見た。希江はマフラーの上から白い息を吐いて海のほうをまっすぐ見ていた。
しばらく黙っていたが、いつまでも希江が動かないのと、つま先から鼻先から、じわじわと寒さがからだを覆ってくる感覚とにじれったくなり、僕は思わず声をかけた。

「希江、帰るぞ」

希江はゆっくりとまばたきをして、僕に振り返りからだ全体を向けた。そして自分の両手を伸ばし、僕の右手をつつんだ。

「つめたい。手袋しなよ」

希江は僕にいった。そういう希江の指先も裸だった。
僕の手よりもずっと冷たかった。希江は僕の手をとったまま、無言で僕の掌に視線を落としていた。
不思議と波の音はなかった。かわりにさらさらと雪が落ちる音だけがした。
希江のまつ毛にわた雪がのっていた。口元は少し開いては閉じる、を繰り返していた。言うべき言葉のかたちを唇が忘れてしまった、そんな風に。


僕は息がつまりそうになった。このままずっと続くのかと思うほど、ながいながい時間に感じられた。

「お前がしたら俺もするよ。行こうぜ」

僕はしぼりだすように声を出した。それ以上の沈黙にたえられなかった。

「・・・」

「帰るぞ」

「どこに」

「どこにって、じぶんちだよ。風邪ひいて死んじまうぞ」

「死んだっていいじゃない」

瞬間、僕は右手を引いた。無意識だった。うつむいていた希江がゆっくりと僕の手のあった場所から顔をあげ、正面から僕と目を合わせた。

「あんたは困るか」

もう少しで泣き出しそうな顔を希江はしていた。僕と海にくるりと背を向けると、ざくざくと早足で家路へ歩みを戻そうとした。

「希江」僕は彼女の背中に呼びかけた。

「志望校、変えてないよな。T高、行くよな」

希江は歩みを停めた。背中を向けたまま、声を張ってこたえた。

「行くよ。志望校は変えない。あんたと同じT高を受ける」

どんな顔をしているのかは見えなかった。





希江とおばさんが埼玉へ引っ越しをしたのは、年が明けてすぐのことだった。
希江の叔父の近くで住むことになった、希江は埼玉の高校へ通う、今までありがとう、黙って行くことになってしまい申し訳ない、という内容の手紙が、おばさんの名前で僕宛に届いた。消印は川越だった。

僕はT高へ進学し、東京の大学へ進学、そのまま関東で就職した。希江のことは中学校の同窓会を開いて数年は、「◯で見かけた」「高校を中退してホステスになっているらしい」「大学でミスコン1位になったらしい」「結婚してもう子供もいるらしい」などと酒の話題になった。けれど、みんな自分たちが子供をもつくらいの年齢になると、もう希江がいたことすらも忘れてしまったようだった。

僕は数年前から正月ではなく、12月の初めに休暇をとって帰省するようになった。
浦の向こうに見える鰊漁の漁火は帰るごとに少なくなっていく。希江の家は相変わらず寂れた空き家のままだった。浦から吹く潮のにおいと浜風の厳しさを、僕のからだは年々忘れていく。
それでも僕は、毎年この浦で希江の姿を探してしまう。もしかしたら15の姿のままの希江が、あの流木たちといっしょに雪に覆われて、今もそこにひとり置き去りにされて、立ち尽くしたままいるのではないかと、探さずにはいられないのだ。


























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